取材・執筆・推敲 書く人の教科書
お客さんの「たのしみ」や「よろこび」に主眼が置かれていること。つまりは、自分よりもお客さんを優先していること。この原則を守ってつくられたものは、すべてコンテンツ 編集者にとって、編集の第一歩とは、ただ「人」を探すことではなく、「それを語るに足る必然性と説得力」の持ち主を探すこと スタイルを考えることは「誰に、どう読んでもらうのか」を考えることだと言える。あるいは「そのコンテンツのゴールを、どこに設定するのか」
ここでしか読めないなにか」が含まれたとき、はじめて本質的な価値を手にする。
常に「ここでしか読めないもの」を探しながら取材をし、執筆していく必要がある。裏を返すとライターは、「なにが既知の情報なのか」を知っておく必要があるし、調べあげておく必要 没入の鍵は、物語(ストーリー) の有無よりもむしろ、「人格(キャラクター) の付与」にある。魅力的なキャラクターがいるからこそわれわれは、そこに自分を重ね、作中の出来事を自分ごととして読み、手に汗を握る。自己を投影するキャラクターがいなければ、うまく感情移入することができない 非 フィクションの原稿に必要なものはなにか。 ブリッジだ。対象と読者とをつなぐブリッジを架けることだ。 たとえば、ノーベル賞につながるような学問上の大発見を紹介するとき。専門家たちが「向こう岸」で語り合っているうちは、対岸の火事に過ぎない。そこに橋が架けられてようやく、読者は「自分ごと」として、なんらかの興味や切実さ
コンテンツは、なんらかの意味で読者を映す鏡のような存在でなければならない。鏡面性を持たない 曇ったコンテンツは他人ごと
ライターとは、「取材者」である。 そして取材者にとっての原稿とは、「返事」である。 取材者であるわれわれは、「返事としてのコンテンツ」をつくっている。
すぐれた画家たちは、画力以前に「目」がすぐれている。凡人には見えないものを、ありありと見ている。 まずは「読者としての自分」を鍛えていこう。本を、映画を、人を、世界を、常に読む人であろう。あなたの原稿がつまらないとしたら、それは「書き手としてのあなた」が悪いのではなく、「読者としてのあなた」が甘い。**能動的に読む人は、映画を映画としてたのしみつつ、ジェットコースターから降りることも 辞さない。そして自分のこころが揺さぶられた瞬間、なにによってこころが動いたのか、そのからくりを読み解く意志と落ち着きを持っている。 つくり手の意図を、仕掛けを、その構造を考える。自分なりの仮説を立て、自分なりの解を出す。それが取材者に必要な能動的読書であり、鑑賞だ。また、**真の傑作とはそうした観客たちの「読み」をはね返すだけの力を持っている。ことばや理屈では分析しきれない感動を提供するものが、アート** 対象を、**じっくりと「観察」すること。そして観察によって得られた情報から「推論」を重ねていく**こと。直感で判断せず、かならず理を伴った推論を展開していくこと。さらに推論の結果として、自分なりの「仮説」を立てること。こうに違いない、と思えるところまで考えを進める 乱読である。 自分の興味関心から離れた本、仕事やプライベートの実利と直結しているとは思えない本、特段話題になっているわけではないジャンルの本、顔も名前も知らない異国の作者の本を、ただ読んでいく。目的のないまま、いわば「読むために読む本」 次になにを言うか」を考えている人は、相手の話をほとんど聞いていない。自分のことであたまがいっぱいで、早くおれに投げさせろ、とさえ思っている。ひとりのキャッチャーとして、どっしりミットを構える。ピッチャーの投げる球を、ひたすら受け止める。もちろんボールは投げ返すが、自分がピッチャーにまわることはしない
取材前、入念に下調べする。 その人の著作、音源、映像、過去のインタビュー記事、ソーシャルメディア、ブログ、その人が身を置く業界を紹介した書籍や関連ウェブサイトなどに、できうるかぎり目を通し、読み込んでいく。取材用の「資料」として読むのではない。その人を「好き」になるため、「好き」になる手がかりをつかむため、手当たり次第に読み いいところ」を見つけたら、その「いいところ」を自分のなかで思いっきり 膨らませ、「好き」を育てていく。対面する前からもう、大好きになっておく。そうすれば自然と「聴く」態勢がつくられていく 「気がついたら、こんなところにまできてしまった」 「おかげで、はじめてことばにすることができた」 お互いがそう思える取材が、最高の取材
実際の取材においては、要約や決めつけのニュアンスが混じる「つまり」よりも、「ということは」を考えるほうがいいだろう。 相手の話を受けて、瞬時に「ということは」に続く問いを考える。そうすると」「だとしたら」「とはいえ」「それにしても」「言い換えれば」「一方」「そうは言っても」「逆に言うと」など、いい質問につながっていく接続語はたくさんある。自分のなかに接続語(主に接続詞) のストックをたくさん持ち、それぞれに続く問いを考え、瞬時に言語化できる訓練を重ねていこう。 わかりにくい文章とは、書き手自身が「わかっていない」文章なのだ。 テクニックの問題ではない。語られている内容のむずかしさも関係ない。わからないことを、わからないままに書いたから、わかりにくい文章になっている。
自分のあたまで考えるとは、「自分のことば」で考えることだ。 われわれは、他人のことばで考え、借りもののことばで考えているかぎり、ほんとうの理解には近づけない。 ひとりでも多くの人たちとシェアしたい。みんなでうなずき、みんなで驚き、みんなで語り合いたい。そんな欲求に 駆られ、ライターたちは原稿に向かう。言いたいことなど、なにもない。ただ伝えたいのだし、みずからの感動をシェアしたいだけ
説得とは「されるもの」である。そして納得とは「するもの」である。前者は不本意な受動であり、後者は能動である。 読者を説得してはいけない。いわんや、読者を論破してやろうなどと考えてはいけない。
では、どうすれば納得が生まれるのか? なにがあれば読者は、みずから歩み寄ってくれるのか? 課題の「共有」である。 これから論じるテーマが、読者(あなた) にとっても無関係ではないと知ってもらうこと。むしろ、いまの自分にこそ切実な課題だと感じとってもらうこと 起 転承 結」である。 つまり、「起」で語りはじめた話を、早々に「転」でひっくり返し、それを受けた「承」のパートを経て、「結」に至るのだ。・起 世間で常識とされていること ・転 それをくつがえす、みずからの主張(もしくは仮説) ・承 そう主張する理由と、理由を裏づける事実や類例 ・結 論証を経たうえでの結論
物語全体を、シークエンスの単位で区切っていく。自分の企画を、あるいは原稿を、「そこに『きびだんご』はあるか?」の目で読み返してみよう。そしてその「きびだんご」が有用で魅力的なものであるか、もう一度考えよう。これはコンテンツの核心をつかむため 各シークエンスを取りこぼさない構造の頑強性。そして「この原稿を、この原稿たらしめているもの」を考える情報の希少性。さらには読者の「自分ごと化」を実現する課題の鏡面性。自分の取材した分母について、絵本的発想で考えられるようになれば、構成力は格段に向上する
仮に高校野球の漫画だったなら、なるべく早い段階(たとえば第1巻、できれば第1話) で「甲子園に行くぞ」や「甲子園で優勝するぞ」というゴールを示したほうがいい。そうすることによって読者は、安心してそのバスに乗ることができる。逆に、ゴールや行き先が不明なままずるずるとはじまる漫画——たとえば野球部に入部しないまま何話も続く漫画——は、なかなか読者が乗車してくれない。ほんとうに信頼できるバスなのか、へんなところに連れていかれはしないか、半信半疑のまま様子を窺う。それが「バスの行き先理論」
対談の本質にある「交換」とはなにか。 ぼくは理想の交換を、「学び合い」だと考えている。相手の人格、経験、価値観に敬意を抱き、そこから発せられることばになにかを学ぼうとすること。
コラムとは、「巻き込み型の文章」だ。 呼ばれてもいないのにぐいぐい首を突っ込み、対象をあれこれ評し、自説を論じる。そんなおせっかいを焼くのが、コラムニストの仕事だ。エッセイは、「巻き込まれ型の文章」だ。 洗濯物を干していたら、急に雨が降り出した。部屋の掃除をしていたら、引き出しの奥からむかしの手紙が出てきた。同窓会に出席したら、担任だった先生からこんなことを言われた。
感覚的文章の根底には、徹底した「観察」がある。 エッセイストだからといって、その人のまわりに特別な事件があふれているわけではない。感受性にすぐれた、観察者——つまりは取材者——としての日常を過ごしているからこそ、彼ら・彼女らはなにかを見つける。 読点は、楽譜でいえば休符であり、水泳でいえば息継ぎだ。自分の書いた文章をそのたびごとに音読しながら、自分にとっての「気持ちのいいリズム」を探っていこ
論文的ストーリーの鍵は、「起伏」ではなく、結末までの「距離」だ。 導入から結末までの距離が、どれくらい離れているのか。つまり、どれだけ遠くから語りはじめ、無事に、また見事に、結末へとたどり着くことができるのか。その展開の妙にこそ、論文的ストーリーのおもしろさ
導入から結末までの距離だけを考えておけばいい。結末からなるべく遠いところに始点を置く。本論とはおよそ無関係に思えるようなところから、語りはじめる。指針とすべきは「導入から結末までの距離」
推敲によって、ダメな自分と向き合う。いいと思っていた原稿の、さまざまなミスを発見する。それは「書き手としての自分」がダメなのではない。「読者としての自分」が鋭い証。自分で「うまいこと言えた」と思える箇所ほど、読者を 興醒めさせる贅肉だったりするもの すぐれた編集者のプロたる 所以 は、みずからの「読みたいもの」が、「まだこの世に存在しないもの」である点だ。まだこの世に存在しないにもかかわらず、なんらかのリアリティをもって「それ」が見えている。誰に協力を仰げば実現するかも見えている。彼ら・彼女らはいつも「ここにないもの」を探している。いま、ここにはなにが「ある」のか。そしてここには、なにが「ない」のか。それはなぜ「ない」のか。自分がつくることはできないのか。つくるとすれば、なにが足りなくて、誰の協力が必要なのか。どんな掛け合わせがあれば、それは完成するのか。……トレンドに敏感なのも、フットワークが軽いのも、ヒットの芽を探すからではない。彼ら・彼女らは、ただ「空席」を探しているのだ。「ここにないもの」を探すために、「すでにあるもの」を集め回っている 編集者は、「つくる人」である前に、「読む人」でなければならない。「自分はなにをつくりたいのか」ではなく、「自分はなにを読みたいのか」から出発しなければならない。そして自分の読みたいものが、読みたいかたちで存在していないからこそ、編集者はコンテンツづくりに着手する。「誰が、なにを、どう語るのか」のパッケージを設計しつつ、作家やライター、専門家(取材対象者) たちに声をかける。「誰が、なにを、どう語るのか」の三角形はあくまで、「これまでになかった組み合わせ」でなければならない。 みずからの立ち位置において、実際に書くことをしない編集者はロマンチストであり、それを書くライターはリアリストであるべきだ。編集者とは無責任な大ボラ吹きであり、ライターは嘘を禁じられた人間だ。そんな両者が手を結ぶからこそ、いいコンテンツが生まれる 推敲で追い求めたいのは、「ゆたかな文章」だ。 語彙がゆたかであり、展開がゆたかであり、事例がゆたかであり、レトリックがゆたかな文章。一本調子で書かれておらず、さまざまな表現が盛り込まれた文章。言い換えるなら、「表現の希少性」にすぐれた文章だ。
限界のもう1メートル先」まで潜らせてくれる命綱がある。 自信だ。根性でも、才能でも、編集者でもなく、みずからを信じる気持ち、自信だ。 自分なら大丈夫、自分ならもっと先まで行ける、 深淵 のなにかに触れられる、という根拠なき自信だけが「限界のもう1メートル先」まで潜らせてくれるのだ。 よき自信家であろう。迷いのない文章を書き、自分を信じる